詳しい沿革

1873

杉浦六三郎、東京麹町の小西屋六兵衛店で石版・写真器材の取り扱い開始(後のコニカ株式会社の創業)

杉浦六三郎(後に六代目杉浦六右衛門と改名)の曽祖父がはじめた薬種問屋「小西屋六兵衛店」は、東京でも有数の大商店でした。六三郎は25歳の時に写真館で撮影した写真に感動し、写真器材の取り扱いをはじめます。その後、家業から独立、日本橋に石版・写真器材の販売店「小西本店」(後のコニカ株式会社)を開業しました。

1896

X線器械を輸入し実験を実施

1897

映画撮影機器を国内初輸入、初の日本人撮影による映画が完成

1913

石版印刷インキの製造に成功

1923

小西写真専門学校(現 東京工芸大学)設立

1928

田嶋一雄、「日独写真機商店」(後のミノルタ株式会社)を創立、国産カメラの製造に着手

父が経営する神戸の貿易会社に勤めていた田嶋一雄は、欧州訪問の際に光学機器の将来性に着目。帰国後の1928年11月11日に「日独写真機商店」(後のミノルタ株式会社)を設立し、現在の西宮市武庫川河畔に最初の工場を開きました。当時、周辺に下請け工場などはなく、ドイツから呼び寄せた技術者たちの指導のもと、小さな部品の1つ1つにいたるまで自社生産が行われていました。そして翌年にはカメラ一号機「ニフカレッテ」を発売します。

1936

組織を株式会社に改め、株式会社小西六本店
(後のコニカ株式会社)を設立

1951

日本初のCMソングをラジオで流す

1952

初の米国拠点を設立

1882

写真用暗箱の製造を開始

1882

石版印刷器械の製造を開始

1903

国産初の印画紙「さくら白金タイプ紙」発売

1903

国産初のブランド付量産カメラ「チェリー手提用暗函」発売

国産初のブランド付量産カメラ「チェリー手提用暗函」には6枚の乾板(57×83mm)が装填可能で、2円30銭と当時のカメラとしては手頃な価格で販売されました。それまでカメラは写真館の経営者ら一部の間でしか入手できないものでしたが、これ以降、一般の人の手に少し近づいていきます。

1929

一般撮影用写真フィルム「さくらフィルム」発売

1933

自社開発・生産の「さくらレントゲンフィルム」発売

1896年、X線器械を国内で初めて輸入しました。これはドイツの物理学者レントゲンによってX線が発見された翌年という非常に早い時期のことで、X線機械の輸入によって日本の医学界に貢献したいと願ってのことです。そして37年後の1933年、それまで輸入品が当たり前とされていたX線フィルムで、海外製品と比べても遜色ない「さくらレントゲンフィルム」を開発・生産し、販売を開始しました。

1940

国産初のカラーフィルム「さくら天然色フィルム」発表

1929年の初の自社生産フィルム「さくらフィルム」発売から11年後、1940年ついに国産初のカラーフィルム「さくら天然色フィルム」を発表しました。そして翌1941年に「さくら天然色フィルム」は18枚撮り10円で発売されました。

1958

プラネタリウム一号機完成、科学博覧会で公開実演

星好きだった田嶋一雄は、当時日本で最初に導入されたプラネタリウムに通ううち、自社でも作りたいとの思いを深めていきます。カメラレンズの開発で培った光学技術を活かし、街の発明家・信岡正典氏らの協力を得てプラネタリウム開発を続けていました。 これが実を結び、1958年に一号機が完成。兵庫県の遊園地・阪神パークで開催された科学博覧会で公開実演され、3か月で20万人を超える多くの観客を集めました。

1873

杉浦六三郎、東京麹町の小西屋六兵衛店で石版・写真器材の取り扱い開始(後のコニカ株式会社の創業)

杉浦六三郎(後に六代目杉浦六右衛門と改名)の曽祖父がはじめた薬種問屋「小西屋六兵衛店」は、東京でも有数の大商店でした。六三郎は25歳の時に写真館で撮影した写真に感動し、写真器材の取り扱いをはじめます。その後、家業から独立、日本橋に石版・写真器材の販売店「小西本店」(後のコニカ株式会社)を開業しました。

1882

写真用暗箱の製造を開始

1882

石版印刷器械の製造を開始

1896

X線器械を輸入し実験を実施

1897

映画撮影機器を国内初輸入、初の日本人撮影による映画が完成

1903

国産初の印画紙「さくら白金タイプ紙」発売

1903

国産初のブランド付量産カメラ「チェリー手提用暗函」発売

国産初のブランド付量産カメラ「チェリー手提用暗函」には6枚の乾板(57×83mm)が装填可能で、2円30銭と当時のカメラとしては手頃な価格で販売されました。それまでカメラは写真館の経営者ら一部の間でしか入手できないものでしたが、これ以降、一般の人の手に少し近づいていきます。

1913

石版印刷インキの製造に成功

1923

小西写真専門学校(現 東京工芸大学)設立

1928

田嶋一雄、「日独写真機商店」(後のミノルタ株式会社)を創立、国産カメラの製造に着手

父が経営する神戸の貿易会社に勤めていた田嶋一雄は、欧州訪問の際に光学機器の将来性に着目。帰国後の1928年11月11日に「日独写真機商店」(後のミノルタ株式会社)を設立し、現在の西宮市武庫川河畔に最初の工場を開きました。当時、周辺に下請け工場などはなく、ドイツから呼び寄せた技術者たちの指導のもと、小さな部品の1つ1つにいたるまで自社生産が行われていました。そして翌年にはカメラ一号機「ニフカレッテ」を発売します。

1929

一般撮影用写真フィルム「さくらフィルム」発売

1933

自社開発・生産の
「さくらレントゲンフィルム」発売

1896年、X線器械を国内で初めて輸入しました。これはドイツの物理学者レントゲンによってX線が発見された翌年という非常に早い時期のことで、X線機械の輸入によって日本の医学界に貢献したいと願ってのことです。そして37年後の1933年、それまで輸入品が当たり前とされていたX線フィルムで、海外製品と比べても遜色ない「さくらレントゲンフィルム」を開発・生産し、販売を開始しました。

1936

組織を株式会社に改め、株式会社小西六本店(後のコニカ株式会社)を設立

1940

国産初のカラーフィルム「さくら天然色フィルム」発表

1929年の初の自社生産フィルム「さくらフィルム」発売から11年後、1940年ついに国産初のカラーフィルム「さくら天然色フィルム」を発表しました。そして翌1941年に「さくら天然色フィルム」は18枚撮り10円で発売されました。

1951

日本初のCMソングをラジオで流す

1952

初の米国拠点を設立

1958

プラネタリウム一号機完成、科学博覧会で公開実演

田嶋一雄は、欧州視察時にドイツで見たプラネタリウムを自社で作りたいとの思いから、カメラレンズの開発で培った光学技術を活かし、街の発明家・信岡正典氏らの協力を得てプラネタリウム開発を続けていました。 これが実を結び、1958年に一号機が完成。兵庫県の遊園地・阪神パークで開催された科学博覧会で公開実演され、3か月で20万人を超える多くの観客を集めました。