OB座談会 Part2
初優勝メンバーが語る
コニカミノルタイズム形成の現場
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酒井勝充副部長 1978年入部。1992年に監督に就任し、チームを常勝軍団へと導いた。
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佐藤敏信さん 1981年入部。選手として活躍した後1995年にコーチとなり、6度の優勝に貢献。現在はトヨタ自動車監督。
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迎忠一さん 1995年入部。選手として2度の優勝に貢献。2011年よりコーチとしてチームを支える。現在はJR東日本コーチ。
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磯松大輔監督 1996年入部。選手として6度の優勝に貢献。2013年に監督に就任。
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松宮祐行さん 1998年入部。5度の優勝に貢献。現在はセキノ興産プレイングコーチ。
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松宮隆行さん 1998年入部。北京五輪代表。駅伝では8度の優勝に貢献。現在は愛知製鋼プレイングコーチ。
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酒井俊幸さん 1999年入部。選手として3連覇に貢献。現在は箱根駅伝の強豪校、東洋大学監督。
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大島唯司さん 1999年コーチとして入部し、7度の優勝に貢献。現在はJR東日本監督。
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坪田智夫さん 2000年入部。パリ世界陸上代表。5度の優勝に貢献。現在は法政大学駅伝監督。
21世紀の幕開けとともに始まったコニカミノルタ最強時代。
若さと勢いのあるチームは切磋琢磨しながら急勾配の成長カーブを描いていった。
初優勝時のメンバーと指導陣が一堂に会し、当時の秘話、
そしてそれぞれが今も持つコニカミノルタイズムを語ってもらった。
まずは初優勝に至る経緯からお聞かせください。
- 酒井(勝)私が監督を引き受けた1992年当時は本当に弱いチームでした。「勝つ気がないなら陸上競技部をつぶすぞ」と言われたのが本気でチーム作りを始めるきっかけです。スカウト活動に本腰を入れて、後にオリンピックメダリストになるエリック・ワイナイナや現監督の磯松が入り、選手だった佐藤さんにコーチをお願いして、指導体制も変えていきました。
- 佐藤私は現場の練習やメニューづくりを任せてもらいました。その中で、磯松を筆頭にした大卒選手と、松宮兄弟のような高卒組が混在する非常にバランスのいいチームが出来上がってきたんです。
- 大島私はスカウトとチームの事務的なことを担当する立場で加入しました。選手と年が近かったこともあって、選手の苦情引受人にもなってましたね。初仕事は、当時茶髪だった迎を注意することでした(笑)。
当時のチーム内の雰囲気を教えてください。
- 磯松私は1996年に入社し、1997年からキャプテンを務めました。入社当時の駅伝順位はふた桁台でしたが、その後8位、7位とひと桁に上がって、会社の人たちがすごく喜んでくれたのが印象に残っています。
- 迎私は1995年入社で磯松さんの1年前。磯松さんが入って、チームの雰囲気がガラッと変わったことを覚えています。選手としてはストイックだけどプライベートでは兄貴肌。練習でもガンガン前を引っ張ってくれて、必死についていったら自分も伸びていました。
- 松宮(隆)私は高卒で入社 して、1、2年目のニューイヤーは出場できなかったんです。3年目こそ出られるようにがんばろうと自分なりに練習に打ち込んでいました。
- 松宮(祐)オリンピックに出たい、強くなりたいと隆行といつも話していて、チーム内では磯松さんを目標にしてやってましたね。
- 酒井(勝)今2人はかなり控えめに言いましたけど、実際は彼らが練習の中で先輩たちを相当刺激しましたね。朝練で急にペースを上げてみたり。そうすると年上の選手たちは「こいつらには負けられない」となる。隆行と祐行の2人は、まさにチームの起爆剤でした。
- 酒井(俊)年下の松宮兄弟の頑張りは、大卒の立場からすればかなりの刺激になりました。
きつい練習をあたり前にやる集団
- 酒井(俊)佐藤コーチのメニューは厳しかったですね。30km の青梅マラソンを走った翌朝でも朝練習が当たり前のようにありましたから。ただ、やらされていたというより、みんな率先してやっていた。今、指導者になってみてわかるんですが、チーム内にあの雰囲気をつくるのはすごく難しい。
- 坪田私は箱根2区で区間賞を取っての入社だったので、プライドも自信もそれなりにあったのですが、入ってみたら練習についていくのが精一杯で、年下の松宮兄弟に必死にくらいついてました。当時は個々の選手の意識が本当に高かった。言われなくても勝手に練習するんですから。きついメニューも当たり前のようにやっていく。勝つチームってこういうことなのかな、と。
- 大島でも、佐藤さん、酒井さんがいないところでみんな文句言ってたじゃないですか(笑)。あの、1日おきに陣馬と桜坂を走るメニューとか。
- 佐藤あのメニューは、遊び心だね。
- 一同遊び心! 勘弁してください(笑)。
- 佐藤「桜坂」っていう歌が流行ってた時で、近くにあった桜並木の急坂を何本走るというメニューを「桜坂」と名付け定番コースにしていましたね。
- 酒井(俊)網走合宿のアップダウンだらけのコースもきつかった。今振り返れば地力をつけるものすごくいい練習だったと思います。
- 佐藤基礎となる泥臭い練習をやらなきゃ強くなれないと考えていました。でも当時、どんなに厳しい練習を求めても、選手は逃げずにやり切ろうという気概があった。
- 磯松よくやりましたよね。なんでできたのかっていうと、アホばっかり揃ってたからなんでしょうね(笑)。
- 迎そういう練習をやって、さらに空き時間にみんなでテニスしたりバスケしたりしてましたよね(笑)。
- 酒井(勝)きついコースを走らせると最初は必ずへこたれるんです。で、我々は給水も引き上げて見捨てて帰っちゃう。そうなると選手は、次は遅れられないと必死になって体調を合わせてくるわけです。そうやって、だんだん力をつけていった選手が多かった。
勝てるという確信が芽生えた瞬間
優勝が見えてきたのはいつ頃だったのですか?
- 大島2000年11月の東日本実業団駅伝で初優勝したのが大きかったと思います。選手の顔つきも変わってきた。
- 酒井(勝)そもそも勝つなんてまったく思っていなかったからね。東日本もそうだけど、その後の八王子ロングディスタンスでみんな自己ベストかそれに近いタイムを出して、これはいけるなと思いはじめました。
- 磯松1 年間で何が変わったかというと、隆行と祐行。すごい勢いで伸びた。遠くにいたと思ったらあっという間に来てあっという間に抜かれた。ここにいる全員がね(笑)。
- 迎その年に出場した八王子ロングディスタンスは今でも忘れられません。それまで年下の松宮兄弟に負けるなんて考えもしなかったんですけど、そのレースの7000m 過ぎで2人に前にポンっと行かれて、そのまま彼らは28分ひと桁台で走り抜けましたからね。あの時以降、2人には勝てなくなりました。
- 祐行あの時は思った以上のタイムが出たんで自分でもびっくりしました。そのあたりから、ニューイヤーで優勝できるかも、と思い始めましたね。
- 磯松同じ監督の立場として、初出場で最年少の隆行を最長のエース区間に配置したっていうのもなかなかすごい決断でしたが、不思議と納得感もあったんですよね。
- 酒井(勝)隆行と祐行を2区と5区に置くべきだって、選手たち自身が言ってたからね。あとは私が腹をくくればいいだけだった。
- 佐藤私が覚えてるのは、初優勝の直後の酒井監督の「3連覇する」っていう発言。この人何言ってるんだろうって思いましたね(笑)。
- 坪田すぐに言いましたよね。あれは驚いた。
- 酒井(勝)優勝で浮き足立ってるのを引き締めるために言ったんです。あとはチームの平均年齢が低かったし、最年少の松宮兄弟がエース区間走ってるし。これは絶対3連覇できると思った。実際そうなったしね。5連覇って言っておけばよかった(笑)。
優勝の瞬間の気持ちはどうでしたか?
- 松宮(隆)自分は全然有名な選手じゃなかったし、日本一になったことがなかったので、すごく嬉しかったのを覚えてます。来年もこの喜びを経験したいと思いました。
- 松宮(祐)苦労とかはまったくなかった。ただ強くなりたくて一生懸命やった結果優勝したという感じ。若かったし、もう嬉しさしかなかったですね。
- 酒井(俊)初優勝の時は喜び。でも2連覇以降は優勝しなくてはいけないっていう責任感が生まれてくる。1回勝つとすべてが変わるんだと思いました。
- 坪田アンカーでゴールテープを切って優勝できたのはすごく嬉しかったんですが、その反面、メディアで注目を浴びたのは松宮兄弟と3区のザカヨ・ガソ。自分は勝たせてもらった立場だと気づいて、これじゃダメだよな、悔しいなっていうのもありました。
心に宿るコニカミノルタイズム
現在それぞれ指導者として活躍されていますが、コニカミノルタでの経験はどのようにご自身の中に宿っているのでしょうか。
- 迎ひとことで言えばこだわり、ですかね。練習のディテールにこだわる、結果にこだわる、生活面にもこだわりを持つ。選手時代に叩き込んでもらったものが、自分の中に血肉となって落とし込まれていると思います。
- 磯松私は両面あると思っていて、過去の成功体験に引っ張られることへの懸念もあるんです。残すべきものもあるけれど、時代がどんどん変化している中、20年前の体験から抜け出さなければという気持ちもあります。
- 佐藤私は3人の監督との出会いの中で得たものが現在の基礎になっています。また、松宮兄弟を高卒選手のモデルケースにして、トヨタ自動車で宮脇千博という選手を育てました。トヨタ自動車に行ったばかりの頃はよく、コニカミノルタの合宿にも合流させてもらい、選手の意識の高さや練習への取り組み姿勢を吸収させてもらいました。そういう意味でも本当に感謝しています。
- 酒井(俊)条件が悪くても強いチームというのが今、私が目指すチーム像で、イメージしているのはコニカミノルタ時代のチームの雰囲気なんです。凡事徹底する、きちんと準備をする、選手が主体性を持つなど、強くなるためには、メソッドだけでなくそういうプラスアルファが必要で、あの雰囲気を当事者として体験できたのは私にとってとても大きな財産です。
- 坪田自分は大学時代、結果が出ればそれでいいと考えていました。でも、人間的な成長がないと競技者としても先はないということをここで学ばせてもらいました。今、現役の子たちにそれを伝えるべく指導しています。
- 松宮(隆)私はこのチームで勝つ喜びを味わうことができた。勝利の味というのは体験しないとわからないもので、1度勝てばやっぱり次も優勝じゃないと嫌なんですね。だからこそもっと貪欲に自ら練習に打ち込んでいき、そこに自立心が生まれる。今いる愛知製鋼の選手たちにもそれを味わってもらいたいという思いでやっています。
- 松宮(祐)外に出て初めてわかったのが、コニカミノルタの選手の意識の高さ。中にいる時はそれが普通だと思っていたのでわからなかった。それと、いい意味でチーム内でのライバル意識と緊張感。それがあったから自分は成長できたんだと思います。
- 大島私は酒井さんからはマネジメントを、佐藤さんからはタフさのあるチームをどう作るかというテクニカルな部分を学ばせていただきました。チームを支える事務局や職場の力を知れたことも大きい。今の私の仕事はマネジメントなので、チームの環境づくりにおいて、学んできたものを生かせればと思ってます。
- 酒井(勝)「FastランナーでなくGreatランナーになれ」とずっと言ってきたし速いだけの人間をつくっちゃいけないと思ってきました。競技を終えた後も尊敬される人間になってほしい。勝つことやメダルを取ることはいいことだけど、その後の人生も大事です。私が嬉しいのは、コニカミノルタ出身の指導者はしっかりしてると言われることで、今のみなさんの活躍が頼もしいなと思っています。